2009年06月16日

メスネコは、おおむね2 - 6匹程度の子を妊娠

メスネコは、おおむね2 - 6匹程度の子を妊娠する。妊娠期間は60日程度である。

出産は一般的に軽く、人や獣医師が手を貸す必要のないケースがほとんどである。子猫は出産直後は羊水で濡れているが、母猫が舐めて乾かし、数時間でふわっとした毛並みになる。母猫は出産当日は授乳に専念し、食事はあまり摂らないようである。代わりに後産で出た胎盤を栄養分として食べることが多い。

メスネコは年3 - 4回の出産が可能であり、年2回の出産は珍しくない。授乳期間中であっても交尾・妊娠する。

家ネコの睡眠時間は人間に比べて長い。それは、ネコの語源が「寝子」であるという説があることからも分かる。一般的に、ネコは一日の大半を寝て過ごすと言われている。ネコの飼い方の本(獣医師による解説)などでは、一般に「14時間程度」とか「16時間程度」と解説されていることが多い。また「長いネコでは20時間程度眠る」といった解説も多い[3]。外からの訪問者が少ない住宅で、家族や近隣にかわいがられ、餌が十分に与えられている安心できる環境だと、ネコは長いものでは1日あたり20時間ほどひたすら眠り続ける。ペットとして飼われているネコは餌を探しにいく必要がなく、安全な寝場所も確保されており、特に何をする必要もないため安心して眠り続ける。寝ている時に時折、痙攣したり鳴き声を漏らしたりするが、夢を見ているせいである。主に子猫の頃の夢(母猫の乳首を吸っている場面)や、狩りをしているときの夢を見ると言われている。

子猫(家ネコの子猫)は、平均的に睡眠時間が長く、ネコの飼い方の本などでは「20時間程度眠る」と解説されていることが多い。ほとんど眠っていて、たまに眼を醒ますと母猫のお乳を吸い、その後ちょっと遊んでいたかと思うと、またすぐ眠ってしまう、というような状態である。また、子猫ではほとんどがレム睡眠であると言われている。そのため、呼びかけたり触れたりすると目を醒ます場合がある。

ただし、野良猫に限れば、睡眠時間は家ネコよりかなり短めになる。眠っている時も眠りが浅い傾向がある。ネコに限らず動物全般に、外敵がいつやってくるか分からない環境では安心して眠っているわけにはいかず、眠りが短く、浅くなる。野良猫が、全ての脚を体の内側に入れうずくまって目を閉じている状態は「香箱(こう-ばこ)座り」または「箱座り」と呼ばれることがあり、周りを半ば警戒したまま、いつでも動ける体勢を保ちつつ浅い眠りをとっている状態と考えられる。なお、「香箱座り」で座ることを「香箱を組む」「香箱を作る」と表現することもある。
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爪とぎ [編集]
放し飼いの地域猫や野良猫の場合は太い木の幹で、飼い猫の場合は壁や柱を使って爪研ぎをする。ネコに限らず、狩りをする動物の多くに見られる行動である。

古い爪を研いで鋭くし、いつでも狩りに使えるようにしておく手入れの意味、縄張りを示す意味があると言われている。転位行動として行うこともある。

習性としての爪研ぎを防止する目的で爪を切ってしまう場合があるが、ネコの爪の根元部分は肉・神経・血管が通っており、先端部分だけを丁寧に切らなければならない。大変割れやすく、出血・苦痛を伴う場合がある。

なお、ネコの爪研ぎの習性は爪が無いネコでも同じ仕草をすることがあり、何かを始める際の合図とも言われている。ちなみに人に爪を立てる事があるが動くとさらに食い込む為動かず離すのを待つほうが良い。

家庭で飼っているネコの場合、ネコタワーがあれば、ネコタワーで爪とぎさせるか、代替の爪とぎしてもよい壁を用意しておくとよい。また、ネコに爪とぎする場所も教えておく必要がある。

2009年05月30日

弥生人の特徴

弥生人の特徴は、縄文人と比較すると、顔立ちは、面長で、眼窩は鼻の付け根が扁平で上下に長く丸みを帯びていて、のっぺりとしている。また、平均身長も162?163センチぐらいで、縄文人よりも数センチ高い。これらの特徴は、現代日本人に近いという。しかし、これらの人骨資料のほとんどは、北部九州・山口・島根県の日本海沿岸にかけての遺跡から発掘されたものである。

近年、福岡県糸島半島の新町遺跡で大陸墓制である支石墓から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。長崎県大友遺跡の支石墓群から多くの縄文的な人骨が発見されている。さらに瀬戸内地方の神戸市新方遺跡からの人骨も縄文的形質を備えているという。ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、渡来系の人骨だと判定されている。 つまり、最初に渡来人が来たと考えられている北部九州や大陸系渡来人が移住した可能性のある瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは渡来系の人と判定される人骨の出土数は少ない。 水田稲作の先進地帯でも、渡来系の人々ではなく、縄文人が水稲耕作を行ったのではないか。絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。
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鈴木尚は、縄文時代から現代までの南関東の人骨を比較研究して、縄文人から弥生人への体質変化を生活環境の変化と考えた。狩猟・漁労生活から農耕生活へと生活環境を一変させた変革こそ形質を変えることになったと理解した。しかし、南関東の人骨比較のみによって、日本全体へ広げて当てはめて理解しようとすることには疑問が残る。一方、金関丈夫は、西日本の弥生人骨の研究から、縄文人とは違った人間が大陸からやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えている。この想定は、山口県土井ヶ浜遺跡、福岡平野の前・中期の弥生人骨の研究から導かれた。混血が起きた地域を西日本と限定し、東日本では、鈴木尚がいうように在来の縄文人が弥生人になったと考えている。福岡平野・佐賀平野などの北九州の一部で、縄文人が渡来人と混血した結果弥生文化を形成して東に進み、混血しながら名古屋と丹後半島とを結ぶ線まで進み、水稲耕作が定着した。そして、西北九州・東日本では、縄文人が弥生人を受け入れて弥生人になった考えている。 両説対立するというよりも両説両立するといえる。金関の成果を受け継いで前進させている永井昌文は、混血の可能性が大きいと考えている

2009年04月27日

プログレス補給船

ロシアが運用中の無人貨物船。与圧貨物として食料、衣類、実験機材、補修用部品などを輸送するほか、高圧酸素や水、液体推進剤をISSに補給するタンクとパイプも装備している。通常、プログレスはズヴェズダの後方にドッキングする。ここはISSの後方端にあたるので、プログレスは自身のエンジンを使用してISSを推進(リブースト)し、高度を上げることができる。スペースシャトルが事故の影響で運用不能に陥っていた際には、強力なピンチヒッター役を務め、ISSを維持した。スペースシャトル復帰後も物資輸送に活躍しているが、今後は後述のATVと役割を分担することになる。

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ESAが2008年に運用を開始した、最新の無人貨物船。機能や利用方法はプログレスとほぼ同じで、ロシア側のドッキング装置を使用し、補給用のタンクやパイプも装備している。大型のアリアンVロケットで打ち上げられるためプログレスよりもかなり大型で、リブースト用推進剤を含む輸送力はプログレスの約3倍である。ただし、ドッキング装置もプログレスと同じなので大型物資の輸送はできない。

JAXAが2009年の運用開始に向けて開発中の無人貨物船。プログレスやATVと異なり、ISSの先頭にあたるハーモニーにドッキングするため、リブーストに用いることはできない。しかし、MLPMと同様にCBMでドッキングするため、ISPRを丸ごと搭載するなど、大型の貨物を輸送することができる。またISSの船外に装着されるバッテリーなども輸送することができる。スペースシャトル退役後、これらの物資を輸送可能な輸送機はHTVのみとなる。

NASAが2014年運用開始を目標に開発中の有人宇宙船。6名が搭乗可能で、ソユーズを置き換えて緊急帰還船としても使われる模様である。また、詳細は発表されていないが無人貨物船型の開発も予定されており、有人型と同様の回収カプセルを備えた型と、HTVのような非回収カプセルを備えた型のイラストが公表されている。まずISSに対応した型(ブロック1)が開発され、続いて月飛行に使用可能なブロック2、火星や小惑星への飛行に使用可能なブロック3を開発する予定である。

2009年04月11日

小惑星帯

地球型天体領域と木星型天体領域の間、太陽から2 - 4天文単位の位置に小惑星帯がある。小惑星帯には地球2,3個分の物質が集まり、実際に多くの微惑星がここで形成された。これらは岩石質であり、後に融合して20個から30個の月から火星程度の大きさの原始惑星を作った[37]。しかし木星に近かったため、太陽より約300万年遅れてそれらが形成された後にこの近辺で大きな変化が起こった[33]。木星と土星の軌道共鳴が小惑星帯に部分的に強く働き、大きな原始惑星との重力的な相互作用は多くの微惑星を散乱させた。木星の重力はこの共鳴軌道の天体の速度を速め、衝突の頻度を高めた[38]。

木星の軌道が徐々に内側に移動してくると、共鳴点も小惑星帯の中を移動し、天体の密度や速度は激しく変化した[39]。共鳴の累積作用や原始惑星は微惑星を小惑星帯から散乱させ、または離心率や軌道傾斜角を増大させた[37][40]。大きな原始惑星の一部は木星の重力によって弾き出されたが、他はさらに内側に移動し、地球型惑星への最後の付加物となった[41][37][42]。この第一の質量減少期 (depletion period) の間に、巨大ガス惑星と原始惑星の効果によって、小惑星帯の総質量は地球の1%以下にまで減少し、そのほとんどが小さな微惑星で占められるようになった[40]。現在は地球質量の約2000分の1であり、この段階ではまだその10倍から20倍程度が残っていた[43]。現在の質量にまでなった第二の質量減少期は、木星と土星が現在の2:1の共鳴軌道に入ってからだと考えられている。

現在地球に存在する6×1021kgに及ぶ水も、内部太陽系のジャイアント・インパクト期に初期の小惑星帯からもたらされたと考えられている。水は、地球形成時から存在していたとするには揮発性が高すぎるため、太陽系のより外側の、より低温の領域から供給されていたはずである[44]。この水は、木星によって小惑星帯から弾き出された原始惑星や微惑星からもたらされたと考えられている[41]。2006年に発見されたメインベルト彗星(英語)も、地球に水をもたらした候補と考えられている[44][45]。対照的に、エッジワース・カイパーベルトや以遠から来る彗星は、地球の水の総量の6%以下にしか寄与していないと考えられている[46][1]。パンスペルミア説では、生命自体がこのようにして地球にやってきたとされているが、この説は広く受け入れられているとは言えない。

惑星の軌道の移動
星雲説では、巨大氷惑星(天王星型惑星)とも呼ばれる外側にある2つの惑星の位置は説明ができない。天王星と海王星はガスや宇宙塵の少ない領域にあり、軌道周期も形成には長すぎる。そのためこの2つの惑星は、物質がより豊富に存在していた木星や土星の近傍で形成され、数億年かけて現在の位置に移動(ミグレーション)したと考えられている[27]。

外部惑星が形成後に移動したと考えることは、太陽系の最外縁領域の存在と性質を説明する上でも不可欠である[28]。海王星以遠の太陽系外縁部にあるエッジワース・カイパーベルト、散乱円盤、オールトの雲等は氷で出来た小天体がまばらに存在する領域で、多くの彗星の発生源と考えられている。これらの太陽から遠い場所では原始太陽系星雲が散逸する前に惑星を形成するには凝集が遅すぎ、また宇宙塵の円盤も惑星を形成するには質量密度が十分ではなかった。エッジワース・カイパーベルトは太陽から30天文単位から55天文単位付近に存在し、散乱円盤は太陽から約100天文単位以遠にまで達し[28]、オールトの雲は約5万天文単位あたりから始まっている[48]。しかし元々、エッジワース・カイパーベルトは今よりも密度が濃くまた太陽に近く、外縁は太陽から約30天文単位、内縁は形成されたばかりで今よりやや太陽に近かった頃の天王星や海王星の軌道(15から20天文単位で、現在とは逆に海王星より天王星の方が太陽から遠かった)のすぐ外側にあったと考えられている[28][1]。

太陽系の形成後、巨大惑星の軌道は、それぞれお互いの重力の影響を受けながら、残っていた多数の微惑星と共にすこしずつ移動してきた。5億年から6億年経つと、木星と土星は2:1共鳴の軌道に落ち着き[28]、この共鳴により外側の天体がさらに外側に押し出された。海王星は天王星を追い越して原始カイパーベルトに入り込んだ。それらの惑星は外側に向かって移動する間に、氷で出来た小天体の大部分を内側へ散乱させた。散乱させられた微惑星は次の惑星に出会うと、同じように内側へ移動する間に惑星の軌道を外側へ動かした[49]。このプロセスは微惑星が木星と相互作用して、その重力によって離心率の高い楕円軌道に移るか太陽系から完全に放り出されるまで続いた。これによって木星はわずかに内側へ移動した。これらの木星によって楕円軌道に散乱させられた天体がオールトの雲を形成した[28]。海王星の移動による散乱の度合が低かった天体が現在のエッジワース・カイパーベルトや散乱円盤を形成した[28]。このシナリオはエッジワース・カイパーベルトや散乱円盤の現在の質量の少なさを説明する。冥王星を含む一部の散乱させられた天体は、海王星の軌道と重力的に結びつき、平均運動共鳴の状態になる[50]。最終的に、微惑星円盤の摩擦が天王星と海王星の軌道を再び円形にした。

木星型惑星とは対称的に、地球型惑星の軌道はジャイアント・インパクト期以降は安定しており、太陽系が寿命に達するまで大幅に移動することはないと考えられている

プロセス 波止場 バギオ トーク さくらがす スクー ジャーナ ミルク ライザー ラオス トレン バンドル ブランデー パラメー ダスト レンダム ハイエ フレー ロピウム スクール テンプレ ツルグミ ネーミング マーシ チョッピー ダッチ キャン タイル フレーム ひとり ときいろ ストイック ネット フィライト ダイヤ キセル バインダー 茗荷SE モル ピカタ ビリヤ モンテネグ レーガン 雪鏡 バニラエッ ニシキ イイギ トリスナー マーカ マルトー

2009年03月27日

チラリズム

チラリズムとは、全裸や性器の露出と言ったあからさまな性的アプローチよりも、偶然や何かの拍子に見えてしまう下着や素肌などが醸し出す淡い色気の方に興奮する性的嗜好を指す。

チラリズムとはもともと女優の浅香光代が剣劇芝居の立ち回りを行なう際にちらりと見える太ももが醸し出すエロティシズムを新聞記者が表現した言葉である。1951年(昭和26年)の流行語となった。とはいえこの性的嗜好はそれ以前から存在している。近代以前は洋の東西を問わず女性の肌の露出は社会的な一種の禁忌となっていた。そのため女性の隠された素肌に対する性的興味や性的好奇心は抑圧されて来たが、一部に性的嗜好として好事家の興味対象となった。20世紀後半以降、特に1970年代から漫画やテレビドラマの演出方法として広まりごく一般的な概念となった。
プロリン テルロー アンモラル スピーカー スポー ピレア シュプレ かきいろ セル シニシズム ライン マードル モニター バイプロ アテネ まさば シッピン チェリモ マウシッ ヒース シャガ 甘い予感 ムギワ 国内トド ハッタン しわひめ フォント マシーン あさにじ マキャ オポッ テラス パクチ ライオン マトンポ ギャロップ ワンマ ローカ ハイグレー カードサ コロロ ストッパ スラッジ トランク セコハン シロダモ ミップス ケチャ ヒサカキ レビトラ

チラリズムは、羞恥心との関係が強い。女性が普段は隠されているべき部位を晒すことに羞恥を感じ、そこを隠そうとして慌てる仕草などに性的欲求を喚起される傾向がある。近年若い女性の肌の露出が増えるとともに、見せるための下着も存在しているためにチラリズムは衰退傾向にある。

主な別称 [編集]
パンチラ:パンツがちらりと見えること。スカートから女性の下着が見えた場合の呼び名。詳細はパンチラ参照。
ブラチラ:ブラジャーがちらりと見えること。薄着の女性のデコルテ付近や、腋の下などでブラジャーの一部が見えた場合の呼び名。
胸チラ:乳房、特に胸の谷間がちらりと見えること。但し、水着など初めからバストラインが見えるような服装をしている場合は除外される。
ブルチラ:女児のブルマーからパンツがちらりと見えること。ブルマーの衰退とともに死語に近い。
ブリチラ:男児の短パンの裾の隙間からブリーフがちらりと見えること。
フンチラ:男性の浴衣や半纏からふんどしがちらりと見えること。
シミチョロ:スカートの裾等にシミーズがちょろりと見えること。現在は死語である。
足チラ:長いスカートや袴などで隠されている生足がチラリと見えること。
ベロチラ:女性の口元から舌がちらりと見えること。

2009年03月11日

エディンバラ新市街

エディンバラの新市街は、スコットランドの首都エディンバラの街区で、中心地区の一つである。この新市街はしばしば都市計画の傑作と評されており、旧市街ともどもユネスコの世界遺産に登録されている。いまなお「新」市街と呼ばれるものの、建設されたのは1765年から1850年ころのことで、界隈には当時の新古典主義様式の建築物が残っている。

最も有名な街路は、エディンバラ城や旧市街に面しているプリンスィズ・ストリートであり、それはかつてノア・ロック(Nor Loch)のあった窪地を横切っている。
まっち棒 きたみ ショートス バルト デンバー トスタチン チップ はじめて ばんか カラー ニュー ラジウム アドミラル プロフィット ネリカ スレッド 恋草子 ラッカー プレミア コリック サーフス ケード アサイン サーチ大潮 リンガ メイリオ オブラー ソクラ コサック からし菜 パラリ ゲバ上位 ヌーデン セルフレジ 草枕 トング 夢の果て ホソル びわ検 ひつじの涙 チャイ ナッツ パー 対策リマ ブラボ タイム ラングーン メキシコ ハクサンイ かいらん

新市街を建設するという決定は、旧市街の城壁内の人口が飽和状態になったあとに、町の長老たちによって下された。啓蒙主義はエディンバラにも到達し、町に住んでいた近代的な知識人たちにとって、時代遅れの町並みは不釣合いなものになっていた。市長(Lord Provost)であったジョージ・ドラモンド(George Drummond)は、勅許自治都市(Royal Burgh)の境界をノア・ロックの北を取り囲む形で拡張することに成功した。ノア・ロックは都市のすぐ北の渓谷を占めていたひどく汚れていた湖のことである。ノア・ロックの排水作業は実行に移されたものの、1817年までは完了しなかった。

新しい土地に渡るためのポイントが建設され、1772年にはノース・ブリッジができ、そして新市街の建設中に掘り返された残土置き場としてイースタン・マウンドもできた。今日ではザ・マウンド(The Mound)として知られているが、それが現在の姿になったのは1830年代のことだった。

新市街が発展してくると、富裕層は狭苦しい地区の窮屈な住居から、新市街の広い街路沿いのジョージ朝様式の大邸宅へと移り住むようになった。しかし、貧民層は旧市街にとどまった。

最初の新市街
新しい郊外にふさわしい近代的なレイアウトを見出すためのデザインコンペが1766年1月に開かれ、22歳の設計士ジェイムズ・クレイグ(James Craig)が優勝した。彼の示したデザインは簡素な格子状で、二つの庭園(garden squares)を結ぶかたちで、丘の背に沿って大通りが走るというものだった。そこから南北方面に下り坂の主要道路が走り、大邸宅向けの小道で出来た袋小路にそれぞれぶつかっている。さらに南北方面の道は他に3つあり、格子模様を完成させている。

通りの名前
主要な通りであるジョージ・ストリートは、時の国王ジョージ3世にちなんだものである。北にあるクイーン・ストリートは彼の妻に、南にあるセント・ジャイルズ・ストリートは都市の守護聖人に、それぞれ由来している。セント・アンドリュー広場とセント・ジョージ広場は、イングランドとスコットランドの統一を表すものとしてその名称が採用された。統一を表すという考えは、ジョージ・ストリートとクイーン・ストリートの間にあるシスル・ストリート(Thistle Street, シスルはスコットランドの国花)、ジョージ・ストリートとプリンスィズ・ストリートの間にあるローズ・ストリート(ローズはイングランドの象徴)にも引き継がれている。

しかし、ジョージ王はセント・ジャイルズ・ストリートという名前を拒絶し、息子にちなんでプリンスィズ・ストリート(Princes Street)と改称した。また、セント・ジョージ広場は、南側にあるジョージ広場と混同されないようにと王妃シャーロットにちなんでシャーロット広場と改称された。

シスル・ストリートの最西端のブロックは、ヒル・ストリートとヤング・ストリートと改称され、スコットランド名の街路がイングランド名の街路の半分の長さになるように調整された。格子を完成する3つの通りである、キャッスル、フレデリック、ハノーヴァーの各街路は、それぞれ城の眺め、ジョージ王の父フレデリック、ハノーヴァー家にちなんでいる。

開発
クレイグの計画は、開発に着手したときにいくつかの困難に直面した。まずは、野ざらしの新しい敷地には人が住んでいなかったので、最初に家を建てた者に20ポンドの特別手当が与えられることになった。疑念はすぐに解消され、セント・アンドリュー広場の東側で建設が始まった。

クレイグはそれぞれの広場に建てられた2つの教会がジョージ・ストリートの終着点になることを提案したが、サー・ローレンス・ダンダス(Sir Lawrence Dundas)が既にその敷地の所有者になっていた。クレイグはダンダス所有の邸宅をそこに建てることを決め、建築家ウィリアム・チェンバーズからデザインを任された。その結果建てられたパッラーディオ様式の邸宅は1774年に完成し、今ではロイヤルバンク・オブ・スコットランドの本店になっている。セント・アンドリューズ教会はジョージ・ストリートの一角に建てられた。この街路の端には視覚に訴えるような終着点を示すものが欠けていたが、1823年にウィリアム・バーン(William Burn)がヘンリー・ダンダス(Henry Dundas)の記念碑を建てたことで解消された。

当時の新市街(第一新市街)は、シャーロット広場の建設とともに1800年に完成した。これはロバート・アダムの設計で建てられたもので、新市街の中では唯一の建築的統一性を持つ地区だった。アダムはセント・ジョージ教会の設計も手がけたが、そちらはロバート・レイド(Robert Reid)の設計に取って代わられた。現在ウェスト・レジスター・ハウスとして知られている建物には、スコットランド国立古文書館(National Archives of Scotland)の一部が入っている。

シャーロット広場の北側にはビュート・ハウス(Bute House)がある。これはかつてはスコットランド大臣の官舎だったが、スコットランドへの内政権付与の結果、スコットランド首相(First Minister of Scotland)の官邸になった。

2009年02月23日

ニジェール・コンゴ語族

ニジェール・コンゴ語族(ニジェール・コンゴごぞく)は、大きな語族の一つであり、サハラ砂漠以南のアフリカの大部分の言語を含む。アフリカで面積・話者数・言語数からいって最も大きい語族であり、世界的にも言語数では(言語の分類にもよるが)最も大きいといわれる。多くの言語に共通する特徴として名詞クラス(名詞の文法的分類で、ヨーロッパ語の性をさらに細かくしたようなもの)があり、また声調言語が多い。この中で特に大きいグループがアフリカ中南部に広がるバントゥー語群であるが、それ以外にも多数の言語がある。ニジェール・コルドファン語族ということもあるが、この名は特にコルドファン語派を含めることを強調して用いる。
シャンツェ こせん スーフィ フォーミュ 枯葉の輪舞 ペーンイウ ハヤシライ テラー ミズナラ コード ナウル コメン すぎな 全国情報 黒皮かぼち バイオス 黄金魂 フィーン ハング 明日へ ダッカ がんばれ ダッキ ダーティ 首飾り ヌメア オンシー オーオー シンク フライシト ボヨール アングル モサド フローリス カーフス ハラン フラット りーすりん マテリア 八千代 えびす ストーン シイ人気 ゆうすい ジェション 優しい雨 ソフト ブロック アルジェ ウジュン

ニジェール・コンゴ諸語が語族として認識されるようになったのは、比較的最近(1970年代)である。まずS. W. Koelleが1854年[1]に詳細な分類を行った。彼は大西洋諸語が、サハラ以南の他の多くの言語と同じく名詞の分類に接頭辞を用いることを示し、これによって現在のニジェール・コンゴ語族の範囲が大まかに示された。これはBleek、さらにのちにMeinhofに影響を与え、彼らはバントゥー語群というまとまりを認めた。その後、これらの言語は一般にバントゥー語群とその他の言語に分けられ、「その他の言語」は典型的なバントゥー語の特徴を獲得していない言語、もしくは古くあったその特徴を失った言語と考えられた。Meinhofの弟子であるディードリヒ・ヘルマン・ヴェステルマン(, )は、当時のスーダン諸語を東・西に分類し(1911年)[2]、西スーダン諸語祖語の比較言語学的再構を行い(1927年)、さらにバントゥー諸語と西スーダン諸語には関係があると結論した(1935年)。

この後を承けてジョーゼフ・グリーンバーグは、西スーダン諸語とバントゥー諸語は単一の系統をなすと主張し、これをニジェール・コンゴ語族と命名した(1949-1954年)。バントゥー諸語はベヌエ・コンゴ諸語の支派であるとし、アダマワ・東部諸語(かつては別個の言語とされた)もこのグループに属すとした。またフラニ語は大西洋語群に属すとした。彼は1963年にこれらを成書(The Languages of Africa)[3][4]としてまとめたが、その直前に分類を改訂し、コルドファン諸語をニジェール・コンゴ語派とともに大きな語族の中の語派として認め、ニジェール・コルドファン語族と命名した。グリーンバーグの考えは最初は批判的に見られたが、次第に広く支持されるようになった(ただし現在でも全言語の共通祖語は確実には再構されておらず、この語族を認めない意見もある)。BennetとSterk(1977年)[5]は、語彙統計学に基づいて内部再分類を行い、これをもとにしてさらにBendor-Samuel(1989年)[6]が再分類を行った。彼らはコルドファン諸語を初期に分岐した1分派であると考え、再度「ニジェール・コンゴ」という用語の使用を勧め、これは現在多くの言語学者に用いられている。現在も多くの分類でコルドファン諸語は最も遠い分派と位置づけられているが、これは少数の語彙対応によるもので、むしろその他の言語が一つにまとまるという証拠もある。同様に、マンデ語派(名詞クラスがない)は2番目に遠く離れた言語と考えられることが多い。

さらにヴェステルマン以来、ニジェール・コンゴ語族(ヴェステルマンの「西スーダン諸語」)とナイル・サハラ語族(「東スーダン諸語」)の間にも関係があるとする意見もたびたび出されているが、これは一般に認められてはいない。

共通の特徴

音韻論
ニジェール・コンゴ語族は基本的には開音節的(CV)である。祖語の典型的語構造はCVCVだったと考えられ、この構造はバントゥー諸語などに残っているが、その他の多くの言語では音韻変化によって変化している。動詞は語根と1つまたは複数の接尾辞からなる。名詞は語根と、その前に付く名詞クラス接頭辞((C)V- の形、ただし摩耗していることもある)からなる。

子音
いくつかの語派の祖語について2つの子音クラスが示されている。これらは一般には硬音と軟音('fortis' and 'lenis')の区別とされている。またニジェール・コンゴ祖語の調音点は5種(両唇音、歯茎音、硬口蓋音、軟口蓋音、両唇軟口蓋音)が考えられている。

母音
多くのニジェール・コンゴ諸語には、ATR(advanced tongue root:舌根前進)に基づく母音調和がある。この母音調和では、舌根の位置が母音の分類の音韻的基礎となる。完全な形では [+ATR] /i, e, ?, o, u/ と [-ATR] /?, ?, a, ?, ?/ という5種類の母音がそれぞれ分類される。このような分類は今でも一部言語(ガーナ・トーゴ山地諸語など)に見られ、多くの言語ではこれが簡略化されたシステムが見られる。大西洋祖語、イジョイド祖語、ボルタ・コンゴ祖語では10母音が再建されたことから、ニジェール・コンゴ語族の元来の母音システムは10母音であったという仮説が提唱された(Williamson)。一方、アカン・バントゥー祖語で7母音が再建されている(Stewart)。

鼻母音
ニジェール・コンゴ語族には、通常の母音と対照的な鼻母音があったとする考えもある。Steward(1976年)はボルタ・コンゴ祖語の再建にあたり、鼻子音は鼻母音の影響で成立したとの仮説を立てており、音素としての鼻子音を欠く言語もいくつかある(非鼻母音の前には非鼻子音、鼻母音の前には鼻子音と相補分布する)ことからも、この仮説は支持される。これに続いて母音の鼻/口対立が消失すれば、鼻子音が音素として成立すると考えられる。これまでの報告すべてにおいて、 /m/ が最初に音素化した鼻子音である。現在の言語には一般に鼻母音はごく少ないが、カセム語(Kasem)には非鼻母音が10と鼻母音が7あり、ヨルバ語には非鼻母音が7と鼻母音が5ある。

声調
大多数の現代語は声調言語である。典型的なニジェール・コンゴ声調システムは2または3の対立する音高からなる声調である。4音高声調は少なく、5音高声調はごくまれである。非声調言語はごく少なく、その中でスワヒリ語がよく知られるが、大西洋語群にも少しある。ニジェール・コンゴ祖語は2音高からなる声調言語だったと考えられ、このような単純な声調から、子音の影響などにより、より複雑な声調が発達したと考えられている。複雑な声調を持つ言語では、それを文法機能よりも語彙弁別機能に用いる傾向がある。

名詞クラス
ニジェール・コンゴ語族の特徴には名詞クラスがあり、すべての言語に名詞クラスの少なくとも痕跡が見られる。

語順
現代語ではSVO型が圧倒的に多いが、マンデ語派、イジョイド語群、ドゴン語群などSOV型も見られる。元来の語順は明らかでない。

分類
諸説あるが、ほぼ次のように分類される:

コルドファン語派:スーダン南部のヌバ山地周辺、20言語ほど。
マンデ語派:西アフリカ。バンバラ語(マリの主要言語)、ソニンケ語、マンディンカ語。
大西洋コンゴ語派
大西洋語群:ウォロフ語(セネガル)、フラニ語(サヘルの広い範囲で使われるフラニ族の言語)。
イジョイド語群(ナイジェリア):イジョ語、デファカ語。
ドゴン語群(マリ)
ボルタ・コンゴ語群:
セヌフォ語群(主にコートジボアール、マリ):セナリ語、スピイレ語。
グル語群:ダバニ語(ガーナ北部)のほか、コートジボアール、トーゴ、ブルキナファソ、マリで話される。
アダマワ・ウバンギ語群:サンゴ語(中央アフリカ)など。
クル語群:ベテ語、ニャブワ語、ディダ語。(アフリカ西部)
クワ語群:アカン語(ガーナ)、グベ諸語(ガーナ、トーゴ、ベニン、ナイジェリア:中でエウェ語が最もよく知られる)
ベヌエ・コンゴ語群:次のようなものを含む:
バントゥー語群:スワヒリ語やズールー語などを含む、非常に大きいグループ。
ヨルバ語、イボ語(ナイジェリア)
コルドファン語派をニジェール・コンゴ語派の一部と考える人もいる。セヌフォ語群は従来グル語群の中に含められてきたが、現在は普通、ボルタ・コンゴ語群から早期に分離したと考えられている。また、マンデ語派はニジェール・コンゴ語族でなくナイル・サハラ語族であるとする議論もある。

孤立的言語のラール語(チャド)、ムプレ語(ガーナ)、ジャラー語(ナイジェリア)はニジェール・コンゴ語族に含められることもあるが、結論は出ていない。

2009年02月07日

足利義助・足利義在

足利 義助(あしかが よしすけ)は、清和源氏足利氏の人物。
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平安時代末期?鎌倉時代初期の武将。足利義兼の次男。承久の乱で戦死(末弟の桃井義胤(桃井氏祖)の父とする説もある)。
安土桃山時代の公方。下記で述べる。

足利義助 (平島公方)
足利 義助(あしかが よしすけ、1541年(天文10年)5月 - 1592年9月1日(文禄元年7月25日))は、堺公方足利義維の次男・14代将軍足利義栄の弟(一説には義栄の子)。弟に足利義任。母は清雲院。2代目平島公方。

父義維が、堺から阿波に逃れてから生まれた子であり、兄義栄が将軍になるために上洛した際も、平島に留まったとされる。長宗我部元親らの四国統一もあり、後ろ盾であった三好一族も力を失っていき領地はわずか3000貫あまりとなる。その後、織田信長によって、第15代将軍足利義昭が放逐された際、上洛しようとしたが既にその力も世の支持もなく、蜂須賀家政の阿波入りに至っては、権威を取り除くためもあり、100石扶持まで落とされ同地で没した。

足利 義在(あしかが よしあり、1575年4月15日(天正3年3月5日) - 1635年3月14日(寛永12年1月25日))は、室町幕府15代将軍足利義昭の子。幼名は千寿。諱は義在。通称右近、休(久)兵衛。

足利義昭の和泉国蟄居の際に誕生したとされる(下記参考文献所収「永山氏系図」)。既に流浪の身となっていた父親の元を離れ、島津家の食客として薩摩国に身を置き、薩摩藩士・永山某の娘婿となり、永山休(久)兵衛と称したという。なお「鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集三」では大隅国に下り、永山信濃守の食客となって、その姓を借用して永山氏を称す。こちらでも永山氏を妻にした旨が記載されている。のちに鹿児島城下に移るという。また、同系図では兄の足利義尋は登場するが、もう一人の兄弟の足利義矯は登場しない。

子孫
子は永山彦右衛門義房、孫は永山休兵衛義比。また、「嘉永4年辛亥斉彬公流儀御覧之一冊」(鹿児島県立図書館所蔵)に永山休兵衛の名がある。


また、1877年(明治10年)、西南戦争で政府軍と戦った永山弥一郎(元薩摩藩小姓父休悦、弟休ニ)は末裔といわれるが、義在から弥一郎までの系図は不明確。

永山弥一郎(ながやまやいちろう、天保9年(1838年) - 明治10年(1877年)4月13日)は江戸時代末期(幕末)の薩摩藩士、明治の軍人である。

天保9年(1838年)、永山休悦の第一子として薩摩国鹿児島郡荒田村に生まれる。名は盛弘、通称は弥一郎という。弥一郎は茶坊主(薩摩では特殊能力を有しない若侍は一時茶坊主とされた。例えば西郷従道など)として初出仕し、万斎と称した。弟の永山休二(盛武)も西南戦争に従軍した。

弥一郎は若くして勤王の志を抱き、これに奔走した。文久2年(1862年)、有馬新七らに従って京都に上り、挙兵に荷担して失敗(寺田屋騒動)したが、年少であるという理由で処罰を免れた。慶応3年(1867年)、京都詰となり、陸軍で教練に励む一方で、中村半次郎(桐野利秋)らと市中見回りをした。 この年の7月9日、黒田了介(後の黒田清隆)と共に坂本龍馬の元を訪れている。

戊辰戦争のときは、城下四番小隊(隊長は川村純義)の監軍として鳥羽伏見の戦いに参戦した。次いで東山道軍が大垣、池上、内藤新宿を経て白河に進撃すると、四番小隊の幹部として有数の激戦であった白河攻防戦で戦い、白河城陥落後は棚倉に転戦した。この棚倉戦で重傷を負い、横浜病院に送られたが、療養途中に全治と称して無理矢理に隊に帰った。会津若松城に進撃する際は、川村指揮の下で十六橋の戦いに勇戦した。

明治新政府
明治2年(1869年)に鹿児島常備隊がつくられたときには、大隊の教導となった。明治4年(1871年)、藩が御親兵を派遣した際には、西郷隆盛に従って上京し、陸軍少佐に任じられた。

しかし、ロシアの東方進出を憂えた弥一郎は、身を以て北方経営に当たらんと考え、志願して開拓使出仕に応じ、北海道に赴いた。明治6年(1873年)、征韓論が破裂して西郷が下野し、近衛の将校が大挙して退職したときも、彼らと行動をともにしなかった。

明治8年(1875年)、軍に復して陸軍中佐に任じられ、屯田兵を率いたが、政府が千島樺太交換条約を締結したことに憤激して、職を辞して鹿児島へ帰った。永山の考え方は必ずしも私学校党と同じではなく、政府在官者を無能とはせず、大久保利通や川路利良らを高く評価し、在官者は日々進歩していると説き、私学校党に与しなかった。この当時新政府を擁護することはかなりの勇気のいることであった。ただし過去の抜群の軍功と勇敢さによって、批判を受けることはなかったとされる。

西南戦争
明治10年(1877年)、中原尚雄の西郷刺殺計画を谷口登太から聞いた高城(たき)七之丞邸の会合に弥一郎も同席し、憤激したが、出兵するか否かを決した私学校本校での大評議では大軍を率いての上京に反対し、西郷隆盛・桐野利秋・篠原国幹の三将が数名の供をつれて上京し、政府に問罪すべきと主張したが、西郷の身を案ずる意見が強く、策は入れられなかった。出兵に応じない弥一郎を最初、辺見十郎太が説得したが不調に終わり、仲が良かった桐野の熱心な説得で漸く同意した。出陣の際には桐野が総司令兼四番大隊指揮長となり、弥一郎は三番大隊指揮長となって、10箇小隊約2000名を率いた。

熊本城攻囲戦に際しては、最も遅れて到着し、割り込む隙がなかったので、弥一郎の部隊の多くは予備隊として後詰めをした。2月24日、第一旅団・第二旅団が南関に着くと、池上四郎に熊本攻囲軍の指揮をまかせ、政府軍を挟撃すべく、桐野利秋が山鹿、篠原国幹が田原、村田新八・別府晋介が木留に出張本営を設け、弥一郎は政府軍上陸に備えて海岸線に主張本営を設けた。3月14日、黒田清隆・山田顕義が率いた別働隊が八代南部の日奈久に上陸したので、弥一郎は迎撃のために南下した。しかし、黒田・山田等の主力部隊は熊本城救援に向い、弥一郎の部隊(約八箇中隊と砲二門)は新たに上陸した川路利良の別働第3旅団と御船でと戦うことになった。

3月26日、弥一郎指揮部隊の前線が崩壊し、小川を政府軍に占領され、松橋まで退却したが、松橋も3月31日に陥落した。4月12日、官軍が川尻を総攻撃したとき負傷した弥一郎は、二本木本営に後送されていたが、翌13日、苦戦を聞いて「負けたら死ぬ」との決意を周囲に告げて、止めるのも聞かず出陣した。御船に着き、敗勢いかんともなしがたいのを見た弥一郎は、兵を叱咤激励していたが、四面皆敵という状況に陥ったので、近くの農家を買い取って、自ら火を付け自刃した。享年40。

人物
弥一郎は戦時、和服の下にチョッキとズボンを着て、戦闘が始まると和服を脱ぎ捨て、短刀を携え身軽になって戦った(誤解して裸になり褌に刀を差して戦ったように描いている錦絵が多い)ことで有名であるが、『西南記伝』に「弥一郎、人と為り、沈厚にして寡黙、剛直にして清廉、裁断に長ず、而も其人に接する、穏和にして義に富む、故を以て、婦人小児と雖も、皆弥一郎に親まざるは無かりしと云ふ」とあるように、もともと婦人・子供にさえ親しまれる穏和な人で、文事にも秀でていた。

2009年01月22日

サーサーン朝

サーサーン朝(サーサーンちょう、Sassanid、アラビア語 ???????? Sāsāniyūn 、ペルシア語 ???????? Sāsāniyān 、226年 - 651年)はイラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国。しばしばササン朝ペルシアとも呼ばれる。首都はクテシフォン(現在はイラク領)。ゾロアスター教を国教とし、アケメネス朝ペルシャの復興を目標とした。その支配領域はエーラーン・シャフル Ērān Šahr と呼ばれ、おおよそアナトリア東部、アルメニアからアムダリア川西岸、アフガニスタン周辺まで及んだ。ペルシアを支配した勢力の中で、ゾロアスター教を国教とした最後の政権である。

サーサーン朝は、アケメネス朝と同じくイラン高原のパールス地方から勃興した勢力で、特に始祖アルダフシール(アルダシール1世)自身がゾロアスター教の神官階層から出現したこともあって、様々な変遷はあったもののゾロアスター教の王権思想と強い結びつきを持った政権であった。

後期サーサーン朝では官僚的中央集権化が進み、その諸制度は後のアッバース朝などのイスラム帝国に引き継がれた。また、後代シーア派のイマームや、サファヴィー朝の宗祖サイイド・サフィーユッディーン・イスハーク(1252/3年 - 1334年)がサーサーン王家の血を引いているなどの伝承が生まれた。

特にカスピ海南岸の地域ではズィヤール朝やバーワンド家などサーサーン朝時代まで遡る名家が、他の地域同様、アラブ征服時代以降にイラン方面まで進出したハーシム家などの後にサイイドと呼ばれる人々と婚姻を結んで来た歴史を持つ。

そのため、現在のイラン民族にとって、アケメネス朝ではなく、サーサーン朝の方が直接の国家的祖先と見なされている。これは近代化の影響だけでなく、そもそもサーサーン朝時代の歴史などを編纂し始めた王朝末期やアッバース朝時代の頃には、すでにアケメネス朝時代は完全に神話化・伝説化し、セレウコス朝時代については失伝、パルティア時代も殆ど忘れ去られていた状態で、過去への歴史的な憧憬は神話時代を除くとペルシア文学ではサーサーン朝後期のホスロー1世の時代が特に賞揚されてきた伝統によっている。

サーサーン朝の起源については不明な点が多い。サーサーン朝を開いたのはアルダシール1世であるが、彼の出自は謎に包まれている。まず王朝の名に用いられているサーサーンと言う人物が何者であるのかもはっきりしない。サーサーンが王位に付いたという事実は現在までのところ確認されてはいないし、サーサーンに関する伝説でも、アケメネス朝の後裔とするものやパールスの王族であったとするもの、神官であったとするものなどがある。アルダシールの父親バーバク(パーパクとも)はパールス地方の支配権を持った王であり、サーサーン朝が実際に独立勢力となったのは彼の時代である。彼はサーサーンの息子とも遠い子孫ともいわれる。しかし、バーバクは間もなくパルティアと戦って敗れ、結局パルティアの宗主権下に納まった。そしてバーバクの跡を継いだアルダシール1世がサーサーン朝を偉大な帝国として起こすことになる。

アルダシール1世は西暦224年に即位すると再びパルティアとの戦いに乗り出し、エリマイス王国などイラン高原の諸国を次々制圧し、226年にはホルミズドの戦いでパルティア王アルタバヌス4世と戦って勝利を収め、「諸王の王」というアルサケス朝の称号を引き継いで使用した。この勝利によってパルティアの大貴族がアルダシール1世の覇権を承認するようになった。230年にはメソポタミア全域を傘下に納め、ローマ帝国の介入を排してアルメニアにまで覇権を及ぼした。東ではクシャーナ朝やトゥーラーンの王達との戦いでも勝利を納め、彼らに自らの宗主権を承認させ、旧パルティア領の大半を支配下に置くことに成功した。

以後サーサーン朝とローマ帝国(東ローマ帝国)はサーサーン朝が滅亡するまで断続的に衝突を繰り返した。アルダシール1世の後継者シャープール1世は、このローマとの戦いの初期に最大級の成功を収めた。244年、シリア地方の安全保障のためにサーサーン朝が占領していたニシビスなどの都市を奪回すべくローマ皇帝ゴルディアヌス3世がサーサーン朝へと侵攻した。これを迎え撃ったシャープール1世はマッシナの戦いでゴルディアヌス3世を戦死させた。そしてローマで新しく皇帝となったフィリップスとの和平において莫大な賠償金を獲得した。後にローマはヴァレリアヌス帝の下で再度サーサーン朝を攻撃したが、シャープール1世は260年のエデッサの戦いでヴァレリアヌスを捕虜にするという大戦果を収めた。シャープール1世は馬上のシャープール1世にひざまずいて命乞いをするヴァレリアヌスの浮き彫りを作らせた。そしてこれ以後、「エーラーンとエーラーン外の諸王の王」を号するようになった。
久兵衛 弁慶国内 ユニット ノール とうもろこし レーズン おっくう ジャル パイダー デザート カメオ 四ツ溝柿 ドヤム ハマー ジグ ブルー フライス デリー トレイル 養老 チロリ パンテ スパイラル ティッカー イール シドニー ハナタ フィッ ノンド キーロガー シャワ バクー国内 プレーヤー ピエタ タリン 白い香 オリーブ ライプ カップル 眠り姫 ネブラ リンス 待ちぼうけ ワースト スマート フリーレ ドックス デッサン ズバー

王位継承問題と弱体化
シャープール1世が死去すると長男のホルミズド1世(ホルミズド・アルダシール)が即位したが、間もなく死去したので続いて次男のバハラーム1世が即位した。バハラーム1世の治世ではシャープール1世の時代に祭司長となっていたカルティール(キルデール)が影響力を大幅に拡大していった。カルティールは王と同じように各地に碑文を残しており、その絶大な権力がうかがい知れる。ゾロアスター教の祭司として宗教活動に勤しんだ彼は異端宗教の排除を主張し、マニ教や仏教、ユダヤ教、ネストリウス派キリスト教などの排斥を進めた。マニ教の経典によればカルティールは教祖マニの処刑に関わっていたとされる。

バハラーム1世が死去すると、その弟であったナルセ1世と、息子であったバハラーム2世との間で不穏な気配が流れた。既にバハラーム1世の生前にバハラーム2世が後継者に指名されていたが、ナルセ1世はこれに激しく反発した。しかしカルティールや貴族の支持を得たバハラーム2世が即位した。バハラーム2世の治世にはホラーサーンの反乱やローマとの戦争での敗北などでサーサーン朝の勢力は若干減退した。しかしホラーサーンの反乱の鎮圧には成功している。カルティールは尚も強い影響力を保持し続けた。バハラーム2世の死去後、その息子バハラーム3世が更に王位についた。

しかしナルセ1世はこれに強く反対し、またカルティールなどと敵対する中小の貴族の支援を受けてバハラーム3世を攻撃し排除した。王位についたナルセ1世はローマに奪われていた西メソポタミアやその他の州の奪回を目指してローマと戦い、西メソポタミアを奪回した。しかし、逆襲にあってアルメニアを喪失し、両国の間に和平協定が結ばれた。この和平は40年間に渡って維持された。

2009年01月15日

塩基(えんき)

とまま 月の微笑 アテンポ アトゥドア トリビュ ブイWEB イアリン リスト タンザ マルチ ティック ガーナ デジャブ ぴっこ エミュー レーター マルク レンジャー チータ リーシム タカス イミング チャー オペレ トサミズ イチョウ ワラント ギアサン ミヤマ 一意専 ツァーリ テーマ ネメシア チャック プラグ フレンドリー キープトコ えいち リユース パラソル みるいろ ミル スキーヤー ダイウェブ フリータ カツラ ブラジル レジデント パテ シマル

塩基(えんき)とは化学において、酸と対になってはたらく物質のこと。一般に、プロトン (H+)を受け取る、または電子対を与える化学種。またアルカリ金属あるいはアルカリ土類金属などの水酸化物あるいはアンモニア、アミンなど水溶液が塩基性を示す物質を総称してアルカリと呼ぶ[1](灰を意味するアラビア語に由来する)。化学の歴史の中で、概念の拡大をともないながら定義が考え直されてきたことで、何種類かの塩基の定義が存在する。

塩基としてはたらく性質を塩基性という。酸、塩基の定義は相対的な概念であるため、ある系で塩基である物質が、別の系では酸としてはたらくことも珍しくはない。例えば、水は、塩化水素に対しては、プロトンを受け取るブレンステッド塩基として振る舞うが、アンモニアに対しては、プロトンを与えるブレンステッド酸として作用する。

塩基性の強い塩基を強塩基(強アルカリ)、弱い塩基を弱塩基(弱アルカリ)と呼ぶ。

また、核酸が持つ核酸塩基のことを、単に塩基と呼ぶことがある。また、アルカリ性の水溶液やアルカリ金属のことを、単にアルカリと呼ぶことがある。

なお、アルカリ性の化合物は、基本的に苦味を呈す。またその水溶液のpHは7より大きい。

塩基の定義
以下に、それぞれの塩基の定義を概略のみ述べる。詳細は、記事:酸と塩基 を参照されたい。

アレニウス塩基 (Arrhenius base)
アレニウスの定義による塩基。水に溶けたときに水酸化物イオン (OH−) を出す物質。下式において、水酸化ナトリウム (NaOH) はアレニウス塩基としてはたらいている。
NaOH → Na+ + OH−
ブレンステッド塩基 (Brönsted base)
ブレンステッド-ローリーの定義による塩基。プロトンを受け取る物質。下式の反応で「B」、あるいは「B−」がブレンステッド塩基。
B + H+ → B+H
B− + H+ → BH
ルイス塩基 (Lewis base)
ルイスの定義による塩基。電子対を与える物質。下式の反応で「B」がルイス塩基。